BS TBS、林修・世界の名著。
ゲストは芥川賞(1998年)作家の小説家、平野啓一郎さんでした。
「マルテの手記」はオーストリアの詩人・リルケが1910年に発表した、唯一の長編小説。
分からないことの尊さ。
できるものにだけ触れることは、立ち止まってしまうこと。
頭の中では分かっていても、忘れてしまいがちになります。
『自分の見る世界を深める』とはどういうことか?そんなことを改めて考えさせられる放送となりました。
わけ分からない難しい小説を好む人が何を思って感じているのか?についても少しわかるかもしれません。
「マルテの手記」ってどんな本??
パリに住む青年詩人・マルテの手記という形で、「孤独」や「死への恐怖」「愛とは何か」などが繊細な表現で断片的に書き綴られた名著である。
最大の魅力は分からなさ?「マルテの手記」の魅力を語る
林先生が学生の頃、読んでもよくわからなかったという本書。今回この作品を扱うに至って「あちゃー」と思ったのだそうです。今になって読みなおしてもピンとこないんだとか。
平野さんは学生時代に感銘を受けたそうですが、「おすすめの本は?」と友人に聞かれて貸した際、「よく分かんなかった」と言われ、すぐに返されてしまったそう。それだけ読む人の見方に大きく左右される内容となっています。
「よく分からないもの」には世界を深く捉えための魅力がある
この本を読んだ時『自分は世界の浅い部分だけ見て、色々わかった気になっているんじゃないか』と思ったという平野さん。
この感覚をお菓子「ミルフィーユ」に例えて話して下さいました。
これを一番上の層だけ食べた人は”これはパイだ”と思って食べる。
その下のクリームと食べた人は”これはクリームのついたパイ”だと思って食べる。
その下のパイも一緒に食べた人は”これはクリームをパイで挟んだものだ”と思って食べる。
もっと下まで一緒に食べるとまた違ったお菓子に感じる。
自分はミルフィーユの一番上だけ食べて「分かった気」になっているんじゃないか。
”よく分からない”と言われる「マルテの手記」ですが、読み方一つでこんなことまで感じることができる深さを持ち、平野さんにとっては当時の自分の浅さに気が付かせてくれた本なのだそうです。
「分からないなぁ」という心地よさ
謙虚な気持ちで、しみじみと「これ、どういうことかなぁ・・・?」というのが良いんだという平野さん。
平野:自分よりも偉い作家の人と文学の話をする時も「フランス文学ってああいう所わからないですよね。」「わからないね~。」という会話が『良い文学の話してる』って感じがして気持ちいいんですよね。「あれはこういうことなんだよ」って言われるとがっかりするっていうか・・。ある種の畏敬の念を抱いて「わからないね~」と言うんです。
分かるものばかりだと疲れちゃうんですよね。余計なお世話って思うこともありますし、そっとしといて欲しいっていうか・・。俺は分からなくていい、分かりたくないって思うこともありますよね。
自分が書き手になったこともあって、分かる話はどうやって作られているのか分かってしまう、だから分からないものの方が面白いそうです。
自分の小説を難解と言われるときに「何でこんなに難解なんだ!」と怒っている人が謎なのだそう。(ネット上のブック・レビューでよく見ますね。個人的に激しく同意・・。)
平野さん「展開重視の小説に全然興味ないんですよね」と断言
主人公が波乱万丈の物語の中で、次から次へと「どうなるんだろう?ああ、裏切られた!」と思わせるような小説に全く興味が無いという平野さん。ちょっとした毒舌披露です。
伏線がいっぱい貼ってあって、見事に伏線が回収されて、最後に事件が解決するとか・・・そういう小説を人生の中で10冊も読んでないくらい全っっっ然興味が無いんですよ。
まぁ読んでいる間はそれなりに面白いと思うことも少しはあるけど、僕の本の楽しみとはちょっと違う。
自分は最初から思索的な話が好きだったし、ドストエフスキーなんかも好きでした。死ぬとか生きるって話は普段友達とはしないから、そういう本、普段の会話の中では満たされない話を読みたい。
「マルテ」のように繊細に思索していく主人公もいれば、ドストエフスキーの登場人物のように七転八倒しながら考える人もいる。
そのどれも自分とは違う人々だけど、遠くから物語を見ていると、ふっと触れ合う瞬間があるんです。
父の死に対する疑問。「マルテの手記」に惹かれる理由
平野さん「父の死」に対する不思議な気持ち
平野さんの父親の死因は「突然死」。
ある日、勤労感謝の日にお昼ごはんを食べ、畳の上で寝ていたら亡くたったのだそう。1歳の頃のことで、その後は母子家庭で育ちました。
平野:子供の頃から不思議だったんですよね。人間てのはある日突然、昼寝してたら死んでしまうものなんだ、それってどういうことなんだろう?と考えるようになりました。この作品には冒頭から「死」について正面切ってずっと書いてあって、自分が想像もしなかった表現がたくさん出てくるんですよね。
昔は誰でも、果肉の中に格があるように、人間はみな死が自分の身体の中に宿っているのを知っていた。(いや、ほのかに感じていただけかも知れぬ。)子供には小さな子供の死、大人には大きな大人の死。婦人たちは自分のお腹の中にそれを持っていたし、男たちは隆起した胸の中にそれを入れていた。とにかく「死」をみんなが持っていたのだ。それが彼らに不思議な威厳と静かな誇りを与えていた。
「マルテの手記」本文より
突然死ぬという人間が何人も出てくる「マルテの手記」。そういう風に死を捉える方法があるんだなと思ってから、街なかの風景が少し変わって見えるような気がしたそうです。
「死」は重みがあるとは限らない。平野さんが印象に残ったシーン
妹の死を見た母親の言葉と、どのようにして妹が死んだのかが描かれた一節です。
「一度世の中へ出てしまうと、もう世間には一年生が行く学校なんか、どこにもないんですからね。何もかもみんなひどくむずかしいことばかりだわ」
彼女は恐ろしい妹の急死を見てから、こんなふうな人に変わってしまったのだと、みんなは言っていた。エレゴール・スケール伯爵夫人は、舞踏会に出かけるまぎわ、燭台をのせた鏡の前で、髪にさした花束をさし直そうとして焼死したのだった。
※燭台=そうろくを立てるための台
妹は髪飾りを直そうとしなければ死ぬことはなかった。
平野:人間の命は尊いものだと思うから、それに相応しい「重みのある死」があって欲しいなと思うけれど、実際は必ずしもそうじゃない。
すごく考えさせられた一節で、強く印象に残っているそうです。
他、印象に残った「死」のシーン
平野:『僕の犬の死』
突然、犬が短くきれぎれに吠えた。知らぬ人間が部屋にはいって来た時に吠える吠え方だった。僕と犬とはそのような場合、いつもこんな吠え方で知らせあうことに決めている。
だから、僕は思わずドアの方を振り向いた。しかし、『死』はもうすでに内部へ忍びこんでしまったのだった。僕は不安になって犬の目を求めた。しかし、犬の目は、最後の別れを告げる目とは違っていた。イヌは僕を情けなさそうな、激しい目でにらんだのである。
その目は僕が黙って「死」を内部へはいらせてしまったことを非難していた。僕だったらそれを追い返すことができると、あくまで主人を信じきっていたのだろう。
林修:『祖父の死』
(中略)
この「死」は水腫病(すいしゅびょう)であれば誰もが持つという「死」ではなかった。侍従職が一生かかって自分の中で育て、はぐくんできた、暴逆な支配者の「死」であった。
平野さんが記した「マルテの手記」を象徴するひと言。
『世界の見方を知るための本』
林修「正にそうですね。我々は”自分がどうものを見ているのか?”ということは、人の見方を知ることによって、初めて分かるのかもしれません。」
普段から生徒に「勉強は分からない時間にしか意味ないよ」「分かる問題を解いたってしょうがないよ」って言っていたけど、今回はもっと強く「わからないことの尊さ」を教えられた気がしたそうです。
糸井重里さんが以前、「わからないことを、敢えてそのままにしておくことも時には大切」みたいなことを言っていたのを思い出しました。
↓放送で使用されたのは新潮文庫
平野啓一郎・芥川賞受賞作品
史上最年少での受賞となったデビュー作品。マルテの手記と同様に賛否両論ある著書だけど、ただの難書とするだけでは勿体無い、現代小説の数少ないタイプの小説。