今回のゲストは作家の岩下尚史さん。
風流な雰囲気と語り口が独特ですが、その雰囲気にピッタリの名著を選んでくださいました。
岩下さんが選んだ名著は「平家物語」です。
平家物語とは?
『平家物語』は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。
保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。
作者についての謎
はっきりとした作者がわかっていない平家物語。Wikipediaにも次のように記載されています。
作者については古来多くの説がある。最古のものは鎌倉末期に成立した吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述がある。
人間の人智を超えた「運命」を読み取る
岩下さんが感銘を受けた一節で次の場面を挙げました。
平家最後の戦い「壇ノ浦の合戦」で清盛の四男・平知盛が自軍に向けて行った言葉です。
「いかに、名将、勇士といえど、運命が尽きれば力及ばぬが、誰しも名は惜しいものじゃ。東男に弱みを見するな、この期に及んで命を惜しむな、これ以上、一歩も退くな、進めや者ども」
岩下:当時の人たち、侍だけじゃないと思いますけれども「運命」ということを言いますね。今は何かというと「努力すれば必ず叶う」と。
林修:あー、良くないですね、そういう風潮。
岩下:はい。それを幼い時から吹きこまれますでしょ。「何かをすればこうなる」と思い込んでいるところがありますね。けど、やはり私くらいまで生きていると「人間の人智を超えた次元の運命というものに支配されて私どもは生きている」とわかってくるものです。それを今は忘れがちになってしまうところがあります。
岩下:本文を見てみると「運命が尽きれば力及ばぬが、誰しも名は惜しいものじゃ」と書かれていますね。運命があるから平家の没落は惜しいのだけれど、その中でも「名は惜しい」と。つまり「ここで一瞬自分の命を閃かしたい」というところがございます。ただ、命を閃かす(ひらめかす)には普段の修行が必要ですね。ここの部分には書かれていませんが、那須与一のような。今で言う「One chance」みたいな感じですね。
那須与一「ここ一番」での潔い行動
与一は、じっと目をつぶった。
「南無八幡大菩薩、我が生国の日光権現、宇都宮那須温泉(ゆぜん)大明神、願わくは、あの扇の真中を射させ給え。もし射損ずることあらば、生きて再び故郷に帰る事もできませぬ。何卒お力を与え給え」
(中略)
鏑矢(かぶらや)は、あたり一面に響く程の音をたてながら、扇の要(かなめ)の一寸ばかりの所に見事に突き刺さり、扇は空に舞いあがり、きりきりと一つ二つ舞っていたが、さっと海に落ちていった。
岩下:ここ一番という時には、そりゃ普段の努力が必要でしょうけれども、しかしそれは
約束されたものじゃありませんね。どうしても力及ばぬこともある。運命が尽きれば。だからその覚悟は必要ですよね。両方の想いがないと。(普段の努力と覚悟)
岩下:今は「努力すれば叶う」とか、あと失敗した時に「あの時こうだったからダメだった」とか「次にこういう失敗をしないために」とか「検証しなければいけない」「次に困るから」とか後から言うでしょ。
林修:僕は予備校講師ですから、しょっちゅう言ってます(笑)
岩下:ああ、それは「身近なこと」だから。近いことはそれが大事だと思うんですよ。試験で受からなければいけないとか、商売で利益を出したいとかいう時はね。ただ、それがダメだった時ですよね。その時に「運命だった」ということを感じないと見苦しいことになるんじゃないかと思うんです。
林修:・・見苦しいとは?
岩下:それは平家の文章の所々にありますが、武将たちが死を遂げるときに、必ず第三者の意見が入るんです。死に方が見苦しいだとか、見事な死に様だとか。2つの場合があるんです。
岩下さんが選ぶ立派な死に様のシーン
熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)に討ち取られる平敦盛の最後の場面。
取って押えて、首をかこうと、内兜を押しひろげてみると、思いもかけぬ花のような美少年であった。年の頃は十六、七であろう、
(中略)
「そなたにはよい敵じゃ、名を名乗らずとも、見知った者もおろうから、首を取ってお聞きになるがよい。知った者があるはずじゃ」
岩下:当時の人たちは「ここが死に場所だ」と思ったら、その時に見事な死に方をする。その為には普段の修行と覚悟が必要ですよね。別に死ぬのがいいって言っている訳じゃないんですよ。ただ、普段の修行がなければ一瞬の命を輝かせることができないということが平家物語の各所に物語として描かれている、そこに心惹かれますよね。
「情けない」と言われる親子
林修:褒められている人と、その反対の人がいて、その中で一番情けないと言われているのが「宗盛」と「清宗」の親子ですよね。清宗はまだ最後に覚悟したような所がありましたけれど、宗盛はダメでしたよねぇ。
壇ノ浦の戦いで平家が追い詰められた際の一幕に、そのシーンが描かれています。
次々に一門の人々が入水する中にあって、宗盛親子だけは、まだ未練たっぷりに舟端に立って四方を見廻していた。平家の侍の心ある者が、余りみっともないので、傍を駆け抜ける振りをして、宗盛を海に突きとばした。
(中略)
宗盛親子は、沈みもせず、更に二人とも、生れつき、泳ぎが達者な方なので、あちら、こちらを泳ぎ廻っているうちに、これをみつけた伊勢三郎義盛が、熊手にかけて、先ず清宗を引きずりあげた。宗盛も、この様子を見て、進んで引き上げて貰いたそうな様子をみせたので、とうとう親子二人は、舟の上に引上げられた。
こうして源氏側に捕らわれの身となった親子だったが、遂に父・宗盛に「その時」が訪れます。
驚いたことに宗盛は、座からすべり降りて平伏しているのであった。
(中略)
「何と浅ましいことをなさる、平伏さえすれば、命が助かるとでも思っておられるのであろうか。」
(中略)
宗盛は聖の顔をみると、すがりつくようにしていうのであった。
「右衛門督はどこにおるのであろう。たとえ首ははねられても、一つところで死のうと約束していたのに、」
(中略)
いかにも未練に満ちたその声は哀れであった。公長(きんなが)の体がつと前へ寄ったとみる間に、ころりと宗盛の首は前へ落ちていた。
続いて息子の清宗にも「その時」は訪れました。
鐘を打ち鳴らし、念仏を唱えたが、父と違って取り乱した様子は見せなかった。
「父の最期は如何でございましたでしょうか?」
と心配そうに尋ねた。
林修:子どもに心配されるくらい情けない死に方をしてしまったという・・・。
岩下:そうですね。よく「操(みさお)」って言いますわね。今でいう「貞操」みたいな。どうやら調べると、こういうことらしいんですよ。「みてくれ」のことらしいです。だから「死ぬ時も見てくれよく死にたい」っていうことでしょうね。それで「できない奴はダメな奴」なんでしょう。昔で言う「もののふ(武士)の観念」としてはね。
岩下:例えばこれが「能」の場合、宗盛なんかは殆ど主人公にはなりませんが、「湯谷(ゆや)」なんていう能でも、武将にしてはどこか呑気な感じに描かれますよね。原作にそう書いてありますから。後にできた芸能の世界でも宗盛の性格は損をしていますよね。やっぱりそれは原作で性格の印象を決定づけられているからで、それが「死にざま」ということですよね。
林修:日本人てこんなに「死にかた」にこだわる民族なんだなぁと感じます。今回はそこから自分のイマジネーションを広げて考えてみたんですが、これを受け継いだのが「北斗の拳」かなぁって考えたんですよ。
岩下:北斗の拳て何ですか?
林修:えーっと・・現代の漫画なんですけど、戦っていくんですね。その死にざまがすごいんですよ。
岩下:ごめんなさい、わたくし漫画は小学校の時の「ウメ星デンカ」以来で見ていないんですよ。あれで卒業しちゃったんですよ。(藤子F不二雄が原作です)
林修:ごめんなさい(笑)でも、日本で評価されるにはこんなに死にざまが重要なんだなぁと思いました。
岩下:死にざまって魅力的なんでしょうね。
林修:今回読みなおしてみて、一人ひとりの死にざまがこんなに描かれていることは記憶になかったですね。やっぱり自分の見方が偏っているんだなぁと。(林先生は源氏に関しては詳しいらしいです)
昔の日本人が目指した生きかたと、日本の帝王学を読み取る
平氏と源氏、それぞれの裏で糸を引き、権力の掌握につとめたと言われる「後白河法皇」。
この後白河法皇の描き方に関する岩下さんの解釈が興味深いものでした。
岩下:あの白河法皇の描き方こそ、源氏・平氏の武士よりは日本的だと思います。あれこそ、もともと日本人が理想としている生きかただったんじゃないかなぁと。
林修:ああ、なるほど。でも今あれをやると社会的には良く言われないですよねぇ。
岩下:はい、言われないですけど、それは私たちの目が曇ったんだと思います。後世の私たちの目が。(今は)ある意味武士道的と言うんでしょうかね。
林修:確かに力はないんですよね。武力を持たない人間が、生き延びるために必死に自分の持てる力を使い尽くすっていう点では、さっき言ったように「潔さ」がありますよね。
岩下:そうですね。それから自分が動かず人を動かす力っていうんでしょうか、それを使う能力が日本人が憧れていた、近づこうとした生きかたなんじゃないでしょうか。それが一種の大和魂でもあり、それを使うことができる人が本当の帝王だと感じていたんじゃないでしょうか。
林修:じゃあいわゆる日本的な帝王学が学べるっていう。なかなかそういうことを言う人っていないと思うので、今回は特に岩下さんの「平家物語論」が強く出たんじゃないでしょうか。
二人が選ぶ魅力的な女性の登場人物
林修「二位尼(平時子)」
日本画家の林雲鳳を祖父に持つ林先生ですが、その祖父が描いた代表作「海の浄土」は絵の上部に安徳帝が描かれ、その下に建礼門院や二位の尼(にいのあま)が泣いている姿、海の中にも極楽があると入水(じゅすい)するシーンが描かれているそう。
以下、二位の尼が自身の孫である安徳天皇(7歳)に入水を促すシーンです。
「先ず、東に向き、伊勢大神宮にお暇遊ばしませ、その後、西に向いて西方極楽浄土のご来迎をお祈り遊ばしませ、このあたりは、粟散辺地(ぞんさんへんち)といって、厭(いや)なところでござますが、これから、極楽浄土と申す有り難いところへお連れ申しましょう」
(中略)
「波の下にも都がございますよ、さあ参りましょう」
岩下:強い女性がお好きなのね。支えてくれるっていう。
林修:まぁ(笑)言うところの常識人ですよね。
岩下「建礼門院(平徳子)」
岩下:この人は成仏するのかしら?と読んでいると思うんだけどね。あの頃の考えだと女性は成仏できないことになっているでしょう。ところが、平家物語は法華経の教えにもある通り、竜女と同じように建礼門院が成仏できたと最後に描かれています。ここで私も救われました。あそこで建礼門院が救われなかったら読んでいる我々も救われないですよ。
林修:もう一つ前で法然がきて「こんな悪人だから極楽にはいけない」という平重衡を救うシーンがありますよね。
「私の一生をかえりみれば、悪行ばかり多くて、この分では、死んでも決して往生はできないと思うのです。上人(しょうにん)様、かような悪人でも、欣求浄土(ごんぐじょうど)を望めるものなのでしょうか?」
(中略)
「罪深いといって卑下なさらずとも、心を廻(めぐ)らし、仏の交わりを結べば、必ず救われます。」
(中略)
こんこんと教えを説く上人の言葉を聞きながら、重衡の顔にも次第によろこびの色が浮かんでくるのがわかった。
林修:あそこと最後のところの二箇所が全ての人の救いになっているのかなと僕は思うんですkれど。
岩下:ただね、建礼門院のところには後白河法皇が訪ねてくるでしょう。あの方が訪ねないと終わらないと思うんですよ。身分の高い人が建礼門院を尋ねることで読者も救われると。
林修:なるほど・・。
岩下さんにとって平家物語を象徴するひと言。
人は落目が大事
林修:確かに、我々はいつも良いときばかりとは限りません。悪くなったときにどういう覚悟で最後のキラめきを見せるのか、改めて考えてみるべきなのではないでしょうか。
現代語訳 平家物語(下) (岩波現代文庫)